2010年10月11日月曜日

環境と性格

うるるん滞在記などを見ていると世界の人はすべて、親切で親しい感じに取られると思う。しかし、意外と閉鎖的だったり、もっとさらにオープンだったりと、一口に言えないのが面白い。国によっても違いがあるが、国の中でもずいぶん性格が違ってくることがある。今回はグアテマラについて書きたいと思う。
自分はグアテマラをメキシコの方から入り、高地を周り、熱帯雨林の地域に抜けていった。グアテマラの高地は基本的に3000m以上の場所がほとんどで、緑が少なく、水も少ない、景色の変化が乏しいところだ。強風がよく吹き、気温の寒暖差が激しい、そして空気が薄く息が苦しい。そこには多数の少数民族が存在する。逆に高地に住んでいたからこそ、生き残れた民族達だ。彼らの表情はどちらかというと、厳しい自然に刻まれたような顔をしていて、簡単にいうと鬱屈としている。しゃべりだすと、人懐っこい笑顔を見せるのだが、普段ははあまり笑ったりしないし、喋り方も硬い喋り方をする。

自分は長い期間高地ですごした。そして、そこから熱帯の地方に流れていった。
自分が行き着いたところはフローレンスという湖の中にある島なのだが、今までとは変わって、気温は20℃位、周りは緑に囲まれて、非常に空気が濃い。風は吹くことなく、湖の表面が、非常になめらかで、すべてがゆっくり流れているような島だった。
長い間、高地で過ごしていた自分は、その空気感だけでものすごく感動してしまった。心地い気温、適度な湿気、濃い空気。
そこの島の人々の喋り方は非常にのんびりとしていて、時間がゆっくりしている。よく夕日をぼーっとみている人に会うし。気軽にあいさつできる空気感がただよっている。そして一番印象な光景が、ホテルのおばちゃんだった。おばちゃんは、客が入ってきても、ソファーにねっころがって動かない、そしてそのシャツにはべっとり食べ残しがついている。そんなの全く気にせずに横に寝そべりながら人懐っこい笑顔で、「おかえり」といってくれるのだ。どう見たって、不快に映るような格好なのに、その背後にある包み込まれるような空気感が、何でも許してしまいそうな気持ちにさせる。鮮やかに、自分たちのもってないパワーを見せられ、何もいえなくなる。


思うに、人々の性格の根は、住んんでいる環境によって、育まれていくのだと思う。人を育むのはお金や国ではなく、人で有り、文化であり、そして自然だと思う。
そんなことが、グアテマラで強く感じたことだった。

そして、東京という、大都市に住んでいる自分たちの性格は、どんなふうに育ち、世界の人達にどんなふうに映るのだろうか


次は、場所を取り上げて、なにか書こうと思いす。なにか、知りたい国や都市、観光名所などあったら、コメントをのこしてください。そのことについて、書きたいと思います!是非!!

2010年9月19日日曜日

雨は自分にとって身近なものであった。

しかし、旅行中は異常な晴れ男っぷりを発揮して、観光の時は2、3回くらいしか雨にあってない。
自分はなんてラッキーなんだとおもっていた。


雨が降ると嫌なことが、ほとんどだ。行動は制限されるし、洗濯物は乾かないし、電車は止まるし。


アメリカからメキシコ、グアテマラと抜けたときは、毎日、快晴だった。その空の色は、ぼやけたものではなく、真っ青で、クレヨンの青みたいな青だった。常に空気が乾燥しており、体が熱くなっても、全然不快感を感じない。日本の高温多湿な夏とは大違いだ。ベトベトしないし汗が乾かないなんてことはない。ずっとこの気候がつづいてくれればと思っていた。

久しぶりに雨に遭遇したのはグアテマラでのこと、ケツァールテンゴという標高が2500くらいの都市だ。その雰囲気を感じたのは匂いだった。

雨の匂いがする、肌に湿気を感じる。
本当に短い時間だったのだが、その間に香った水の匂い。
あんなに嫌っていた雨なのに、久しぶりに感じた湿気はなつかしくて心地良いものだった。

商店の軒先で雨宿りしながら、ひとつ50円くらいのコーラを飲む。

なんだかんだ言って、自分を形作ってきたものを、嫌いでも、好きでも時間が経てばなつかしくなってしまう。しとしとと降る雨を見ながら、そんな事を考えた。

2010年7月10日土曜日

ナスカである理由

ナスカの地上絵というものはとても有名で、誰でも知っていると思う。けど、それがどこにあって、どんなふうに作られていて、どれくらいの大きさのものかは、わからないと思う。今回はナスカの地上絵を訪れた時のことを書こうと思う。

ナスカの地上絵は、ペルーにある。しかし、ペルーと言っても、海沿いの都市のため、標高は高くなく、海がせりあがってできた土地のため、塩分が多く、砂漠地帯が広がっている。そこに描かれているのがナスカの地上絵である。

ナスカについたのは朝5時。バス停の近くで、卵と肉を焼いたものを揚げたパンでサンドしたものを食べながら情報を集める。ロンリープラネットというガイドブックには、ツアーに参加するのが、もっとも簡単にナスカの地上絵を見ることができると書いてある。しかしこちらは貧乏旅行者なので、自力で行ける方法をさがそうとバス会社を訪ね歩き情報を収集した。

どうやら、ナスカからペルーの首都のリマまでは、パンナアメリカハイウェイが走っていて、それが地上絵をぶち抜いているらしい。そしてその途中に、ミラドールという櫓があり、そこでおろしてもらえればナスカの地上絵を見ることができるとわかった。すぐチケットを購入して出発。

途中で降りることを運転手に伝え、約30分でミラドールへ着く。あたり一面の石砂漠の中にぽつんと櫓が立っている。その下にはテンガロンハットをかぶったおっちゃんが、のんびりおみやげを売っている。

櫓を登ると、それまでただの石砂漠だったところに絵が浮かび上がる。蜘蛛の様な形のヤツとか、鳥のようなやつが、はっきり見える。てっぺんまでくると少し塩っぽくて、砂臭い風を感じる。この地帯の周りにはまったく生命を感じない。荒涼とした石砂漠がずっと広がっている。ほんとうに寂しくなるような景色だ。

しかし、目をおろしてみるとそこには、生命力みなぎる幾何学模様の動植物が描いてある。
そして、この対比がその絵たちを美しくしている。

客もこないのか、おっちゃん達がのぼってきて、形のひとつひとつを説明してくれた。

なぜこんなものを作ったのか、誰が何のためにということは、タイムマシーンが出来るまでわからないものだと思う。しかし、そこに地上絵ができた理由はわかった気がした。それはこの目で見てきた土地の素材がわかったからだ。
ナスカ一帯の砂は白いのだが、その上に乗っかっている小石はとても黒い石なのだ。そして、見渡す限りの平面がある。もしナスカが白い地面に白い石だったらなにも描かれなかっただろう。
逆にそこが土だったりしたらさらに絵はかけないだろう。
そこに白と黒のコントラストがあったから、描くことができたのだろうと思う。

そういった意味で、ナスカ平野はとても不思議な土地で、石と地面の色が違う。そして、そのことがそこに何かを描こうとさせたのかもしれない。それを書いたのが、地球人にしろ宇宙人にしろ、書かかたとのは、ナスカという場所だと思った。

帰りのバスを捕まえる為、道路に戻った。どこまでも一直線に道路が走っている。
足元に転がっている石をひとつ拾い上げ、それをバックパックに押し込んだ。

何かを創らせるような環境。何か大きなものを作り上げるような衝動。そして場所。そんなことを考えながらやってきたバスに飛び乗った。

2010年6月8日火曜日

ダブルシャドウ

ウユニ湖と言う塩湖がボリビアの南部にある。
標高3400m、200KM四方が「塩」で埋め尽くされている異常な土地だ。
昼間は強い日差しのせいで25度、夜は塩以外何も無いので、-20度にもなる。
ドラゴンボール世代の人は、精神と時の部屋をおもいうかべてもらえばいい。

雪が降ると白い雪面を見ることができるが、ここは何百KMという広さだ。しかも溶けることはない。
とにかく、見渡す限り真っ白な世界なのだ。

車でその塩原の中心まで行くと、この世のものとは思えない世界が広がっている。

そこを車で2日間旅をしたのだが、その時の話を書こうと思う。


夕方近く、宿の近く塩原に出かける。

太陽はゆっくり落ち始め、空が赤から紫色に無限につながっていく。
それは何度も見たことがある。しかしうユニでは違っていた。

地面が白いことで、紫の光が塩面にうつり上も下も、紫色一色に変わっていくのだ、
そして最後のオレンジが世界を覆うとき、向こう側から、夜が現れる。

夜になるではくて、夜がやってくる。
なんとなく地平線から湧き上がってくるイメージだ。


闇を意識したところにあわせてでてきたのが月だ。
月が突然姿を現している。その日は満月だった。


太陽は沈んでいくというより、大きな坂道を下っているように、消えていく
太陽は見えなくなっても、いまだに空は明るい

満月の明かりが強く感じられるぐらいになったころ、
自分の足元にふと目を落としてみる。

影が二つ。紫色に染まった影が二つ体から伸びている。

月の影と太陽の影。その中心にいる自分。

白い平野で、自分がいなければできなかった現象。

それは、太陽と月と自分で作り出すことができた
すてきな現象だった。

2010年6月5日土曜日

ビジョンクエスト 2

前に進み続けて、約4時間、小さな入り江にたどり着いた。
そして、ここがよいと感じた。

海との距離もよく、熱帯雨林が茂っている。

そこに荷物を置き、やしの葉で寝床を作る。

薪を集めて火の準備をする。

それですることがなくなった。

海に入ってみる。

塩の流れがきつくて、うまく泳げない。

うにが大量に採れる。。

ナイフで、くりぬいてみる。

ナイフが刺さると、うにが苦しそうに針を動かす。

卵巣を取り出し、食べてみる。

約半年振りに食べる生のうには非常におしい。

味以上に、そこにある生命をそのまま摂取することがこんなにもすばらしいことだとおもった。


そしてすることが無くなった。

葉巻を一本すう。

キューバシガーの独特の香りがある

後はやることがない。

一日ここで過ごすのだから、どこにいかなくてもいい。

ただただ、海を見て、太陽が沈んでいくの見る

ある時間から、刻々と景色が変わっていく

夕焼けの美しさは太陽の色だけではない、空との隙間に
できる紫色が非常に美しい。

こくこくと景色がかわり、太陽が最後の足掻きのように、光を発しながら海に沈んでいく。

地平線が広いと、そこにも土地があって、その人はまだ太陽のあるところにいる。

もし、太陽が沈む速度で進む飛行機があったら、一度乗ってみたい。

太陽が見えなくなっても、空はまだ明るい。

きっと、数千メートル空に上ったら太陽は見えているのだろう。

空が変化し始めて2時間。

あたりは暗闇になる。

月もでていない夜。

ゆっくりと、目が順応していったせいか、あたりはよく見える。

空には地球が宇宙にあることを自覚させてくれるような満天の星空

急激に気温が下がり、寒くなってくる。

焚き火に火をつける。

本当に火をつけると落ち着く。

しかし、それは間違いで、火だけを見ていると落ち着く。

火をつけると、あたりが真っ暗になり、突然自分の体が暗闇に浮き上がる。

それは、逆に空から見ると、自分の存在が世界にばれ

とても不安になる。

あたりが全く見えない。

小さな音でもそちらの方に何かがいるのかと目を向けてしまう。

火の光が当たるところだけはよくみえ、あとは暗闇。


ヤシの葉がこすれる音は、ほんとうに人のざわめきに聞こえる

風が吹くと、あたりはたくさんの人に囲まれている様な気分になる。

落ち着くことができない。



本当に怖い。


何も保障されない世界で、一人というのは本当におそろしい。

このとき本当に切実に思った。





太陽があがってほしい。


光がほしい。




朝が来て欲しくないことはいままで何回もあった。

しかし朝が早く着てほしいと願ったのは多分生まれて初めてだと思う。

いや、たぶん祈っていた。

時間の感覚はないので

闇がいつまでも続く

体が急激に冷えてきて、寒くて眠ることができない

ただただ、焚き火を見つめ、朝が来るときをまつ。



ふと顔を上げると、空が白くなっている。
太陽の雰囲気を感じる。
色素の薄い景色があたりに広がりクリアになっていく


そして、太陽が顔を出す。


光がこちらに飛んでくる、周りのものが一瞬にして色を帯びる。

体があったかくなり、鳥が鳴き始める、


今は、もう木のこすれ合う音も気にならない。


今度は太陽に大して感謝の祈りを捧げたいと思った。



そして、その時、生き物以外の生命を感じた気がした。


世界は動いていて、大きな地球があって、太陽がある。

知識として知ってはいるけど、太陽が実感できることは少ない


地球を実感できることは少ない。


びっくりするくらい単純で明解なルールの中に生きている自分がいる。

それをただただ実感した。



2010年5月24日月曜日

水について

海から上がってきたとき飲む水の味がわかるでしょうか
あの、甘さと体に真水がしみこんでいくときの感動を感じたことがあると思います。

日本は水が本当に豊かな国で安全に保障されています。
世界的には基本的に水は買うもので、ほぼ無料で提供はされていません。
日本にもおいしい水が沢山ある。

中国の雲南省を旅行したとき、虎跳境というところにいきました。

約4000Mの山からほぼ垂直の谷が2000メートルの谷底まで続いているという渓谷です。
その渓谷沿いを車で走ったのですが、いたるところに頂上からの雪解け水が細い滝となって
いくつもいくつも落ちてきます、

その水の味は信じられないくらいおいしいのです。水について詳しくないのですが、おいしさの基準はその甘さと軽さにあると思います。

4000の山ですから一年中頂上は雪があります。しかし、赤道に近いため、頂上以外は森に囲まれています。きりっと冷えた水が、森を通り過ぎるときに樹木の生命力という甘さを含み最後の細い滝で、十分に空気を含み流れ落ちます。

湧き水などにはない、また違ったおいしさが体験できると思います。

自分も旅行が好きですから、日本を旅行してみたいのですがそれは、週末を消費に費やすだけではなく、発見や体験をもとめて旅行をしようかと思います。

その中で日本という特殊な地形にある国でおいしい水を探す旅行に出られたらと思います。

2010年5月18日火曜日

ビジョンクエスト

キューバの西部をヒッチハイクで旅をしたとき
一晩だけ野宿をしたことがある。

旅の中で一度だけ、どこまでも歩いてみたかった。
自分の持てる範囲の荷物と少量の水。
それで、人間が一度も踏み入れないようなところへ入ってみたかった。

アメリカン・ネイティブは、大人になるための儀式として、男は初めて射精を迎えた時、女は初潮を迎えた時、砂漠に丸3日間、一人で旅に出るのだそうだ。そしてこの儀式を、「ビジョン・クエスト」という意味の言葉で呼んでいる。本来の「ビジョンクエスト」では、3日間、「自分の場所」を探しながら砂漠をさまよい、直感的にその場所を見つけると、そこを基点に居座る。水以外は食せず、そこで感じたあらゆる感情を、そのまま嘘偽りなく、のちに自分のガイド(酋長やシャーマン、年長者)に伝えなければならない。すると、「おまえはどこから来て、どこに行くのか」を教えられ、最後に「名前」を授かる。ここに、その人生における役割が込められる。

このことを知ったのはつい最近だったが、自分は、ビジョンクエストを求めていたのだと思う。

西のはずれの村を出発する。
海岸線をずっと歩く。
10分ほど歩いたとき、一度振り返ってみる。
海岸線がまがっているので、すでに村は見えない。

そのときから、自分の一歩一歩に躍動感を感じた。

もし道に迷いったり、、強盗にあって歩けなくなったりしたらどこで人生が終わる。ここは日本ではない。すべての常識は通じない世界であり、その超現実に自分は今いる。けして、映像とか本とかのフィクションではない。すべてが自分に帰ってくる世界だ。ここで引き返せば、何事も無く食事にありつけるし旅行を続けられる。しかし、この先に何があるのかは、誰もしらない。そして、そこにはまだ誰も見たことも無いものがあるかもしれない。

頭では何も無いことはもちろんわかっている。目的もなく、なんだかわからないもののために命を懸けるなんてことはばかげたことであるとわかっている。しかし、前に進みたい。その時自分はその原動力を「本能」だと感じたのだ。

それは、普段意識はしない。ただ前に進むという欲求だった。食欲、性欲、睡眠欲。それは生命を維持するために必要な機能だ。どの生物にも備わっている。しかしこのただ前に進むという欲は何なんだろうか?それは好奇心ではなく、ただ前に進むという欲求だ。

他の動物も好奇心というものはある。しかし、得体のしれない何かを見つけるためには行動はしない。しかし、ただただ前に進むという欲求をもつ生物は人間だけじゃないだろうか。

理性と欲求が入り混じる一歩というのは、非常に起伏が激しい。一歩踏み出すごとに呼吸が乱れ、どきどきする。しかし、そのどきどきがとても楽しく感じたのだ。それは自分たちが遠い昔に退化させてしまった原始的な本能に体自体が精一杯喜んでいるような気がしたのだ。


つづく